コラム
2025.07.03

“前向き”という宿題――伊藤計劃 『ハーモニー』に見る幸福のあり方

こんにちは。
今年の4月からこちらのプロジェクトでお世話になっている千葉大学連携大学院生の松嵜と申します。今年度から、こちらのコラムで執筆を担当させていただくことになりました。

早速自己紹介も兼ねて私の今の研究について紹介したいところですが、このコラムを書いている6月時点では、こちらのプロジェクトで”何かをやっている”と語るのは烏滸がましいほどの新参者です。

伊藤計劃 『ハーモニー』
伊藤計劃 『ハーモニー』

最近は、研究を進めるにあたって、自らが参加するプロジェクトがどんな未来を描くのか、それを探しに読書に耽ることが増えました。フィクションから神経科学に至るまで、様々な本を読んでいく中で、このプロジェクトに関心を持った方に是非読んでいただきたいと思える一冊に出会いました。否、出会っていたことに気がつきました。

本棚の中にしばらく眠っていた伊藤計劃のSF大作『ハーモニー』を読み返した夜の話、よかったらコーヒー片手に、気楽に付き合っていただけると嬉しいです。

私は趣味でweb小説を書いている身の上、ジャンルを問わずいろんな物語に触れながら生きてきました。その中でも伊藤計劃のハーモニーは、私の価値観を大きく揺さぶった作品の1つです。初めてこの本を読んだときの衝撃は、今でも鮮明に覚えています。

物語の舞台は21世紀末。人類は全身にナノマシンを埋め込み、健康も感情も社会全体でがっつり管理されている世界です。誰もが“正しい生活”を送るのが当たり前になっていて、いわゆる「無痛」のユートピアがほとんど実現している時代。
主人公のトァンは、そんな完璧そうに見える社会のど真ん中で暮らしています。でも、彼女の中にはどうしようもなく言葉にできない違和感が残っている。物語は、かつて心を通わせた親友ミァハが仕掛けた、衝撃的な集団自死事件をきっかけに大きく動き出します。トァンが事件の謎を追いながら、「痛みを徹底的に排除した社会」が抱える根本的な歪みと対峙していくのが、この物語の核です。

物語を読みながら考えたことがあります。それは、「幸福」と「痛み」の関係性です。ハーモニーの世界は一見、すごくやさしくて思いやりにあふれている。でもそれは、健康や幸せが“義務”として与えられているだけにすぎません。自分で悩み、もがき、時に他人とぶつかる中でしか生まれない「感情」は、社会の仕組みによって静かに押し殺されていく。トァンもそうですが、多くの人がどこか満たされない思いを抱えたまま、気づかないふりをして日常を送っているように見えました。

今、私たちの社会もAIやバイオテクノロジーの発達で、「痛みや苦しみのない文明」を目指してまっしぐらです。AIがストレスを予測してくれて、心理的な負担を事前に消してくれる。老いも病気も“管理”される時代。でもそこで、「苦痛や逆境を本当に消し去った時、人間は心から幸せになれるのか?」と自分に問い直したくなるんです。
私自身、失敗や挫折、失恋や孤独、いろんな苦しい経験をしてきました。でも今振り返ると、そういう経験こそが自分という人間を作ってきたんだと強く思います。人間って、苦しみから逃げ続けるよりも、それを自分の力で乗り越えた時にしか味わえない感覚があるんじゃないでしょうか。

だからこそ、今進行している「前向き」の研究プロジェクトには、私自身とても共感しています。どんな逆境、たとえば貧困や病気、災害やいじめみたいな状況でも、人は本当に自分で「前向きな心」を生み出せるのか。痛みを消すだけじゃなくて、困難を乗り越えて、それを糧に生きていく力を大事にしたい。現実社会も、物語の世界も、豊かさってたぶんそういう「前向きさ」が根っこにあると思うんです。

自分の作品に登場させるキャラクターを描くときも、必ずどこかに「苦しみ」を置くようにしています。それが成長のきっかけになり、物語が生き生きと動き出す。ハーモニーでは物語の最終局面、トァンはミァハの仕掛けた壮大な「選択」の装置――すなわち、「全人類を“システムの外”へ強制的に解放するか、それとも今の痛みなき管理社会を維持するか」――の決断を託されます。この時のトァンはまさに「自由」と「幸福」のはざまで揺れる人間そのものでした。痛みを全部消した世界に、本当に選択肢は残るんだろうか?
私はこの本を閉じた後も、ずっとそのことを考え続けています。人間の幸せって何なのか、苦しみって本当に消し去るべきものなのか。ハーモニーは安易な答えをくれるわけじゃなくて、一人ひとりに自分だけの答えを探させてくれる作品なんだと思います。
これから先、どれだけ技術が進歩しても、「前向きに困難を乗り越える」ことの価値はきっと変わらない。ハーモニーを読んで、改めて物語の持つ力、人間が「幸せ」について考え続ける意味を考えさせられました。
もし、まだこの本を読んだことがなければ、ぜひ一度その世界に足を踏み入れてみてください。そして読み終えたあと、今の自分や社会と重ねて、「自分にとって本当の幸せって何だろう?」と、心の奥で静かに問いかけてみてほしいなと思います。